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 宇和島城 | 菊美ど里劇場


菊美ど里劇場

父が映画の看板を描いていたこともあり、私は映画館には顔パスで自由に出入りができました。2階の映写室の中に入って、上の窓から下を覗いたりしたこともありました。映画館は自分の庭のようなものでした。以前“ニューシネマパラダイス”という映画を見た時、少年トトが自分とだぶって見えたシーンがいくつもありました。昭和30年代は映画の全盛期で、各映画館が競い合うように大きな看板を立てて活気に溢れていました。

終った映画のスチール写真は破って捨てるのですが、今考えるともったいないことをしていたと思います。当然ですが、私の家にはスチール写真やポスターが山ほどありました。たぶん今では貴重なものもたくさんあったと思います。 父が看板を描くのを見て子供ながらに「すごいなあ」と思ったことは、10m以上の大きなキリヌキの看板を描くのに、はじめバラバラに描いておいて、現場(映画館)に行って組み立てるのですが、組み立てた後、遠くから見るとひとつの絵になっているのがいつも不思議でなりませんでした。

父が描いていた映画館の名前は、菊美ど里(きくみどり)劇場と言いました。宇和島市の中心部に建っていて、市のシンボル的存在だったように思えます。しかし私が22歳の時に火事で焼けてしまうのです。映画“ニューシネマパラダイス”でも映画館が焼けてしまいますが、新しく建て直されます。菊美ど里劇場が焼けた時は映画は以前ほどの活気がなくなっていて、新しく建て直す力が残っていませんでした。焼けた後は駐車場になって今に至っています。22年前あの場所に映画館があったことを知る人は今は少なくなっているでしょう。

時代が変わるにつれて映画館もずいぶん変わってきました。大きな手描きの看板などは少しずつ消えていき、今はポスターに変わっています。父のような職人も今はほとんどいないと聞きます。大きな看板を短時間で描きあげるダイナミックな筆さばきは、見ていてほれぼれしました。その技術が消えていくのは残念でなりません。自分の筆だけを持って、いろいろな映画館を渡り歩く職人さんもいたといいます。職人さん同士が競い合って腕を磨いていた時代です。

映画館は上映するだけでなく、映画に関係したたくさんの人々のドラマを生み、見つめてきたところです。いつの時代も新しいものが生まれ、古いものはなくなっていきます。映画看板描きという仕事もいつかはなくなることでしょうが、父が映画の看板を描いていたことにより、私が今、絵を描くことができるのです。<下の絵は私が若い頃描いた人物画です。クリックすると大きくなります>


<各作品はクリックすると大きくなります>

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illustration by Kimi Tamagami
玉神輝美のサイン